自己紹介

松田 賢岳(マツダ マサタケ)

●生年月日…1982年4月18日

●身体…172㎝、68㎏

●家族…妻、子

●出身…埼玉県越谷市

●居住…千葉県千葉市

●左利き(書くこと、料理の包丁は右)

●仕事…保険代理店(生命保険7社、損害保険2社)

住んだことある場所

埼玉県越谷市…33年間、埼玉県鴻巣市…2年間、千葉県千葉市…3年目

学歴

・越谷市立大袋北保育所

・越谷市立千間台小学校

・越谷市立千間台中学校

・私立國學院大學栃木高等学校

・駿台予備校(浪人生)

・後藤学園 武蔵野調理師専門学校(調理師科)

【保育所~小学校時代】

生後10か月で保育園へ。

記憶にあるのは、臆病な性格で、高いとこが苦手。

近くの公園へ散歩に行った際、高い所へ上ってしまい、しばらくそこから怖くて降りられず半べそかきながら立ちすくんでいました。

そして、お昼寝の時間が大っ嫌い。いつも昼寝をしないので「賢岳くんおやつ抜きだからね」と先生に怒られていました。

電車が大好きで、よく父と一緒に電車を見に出かけていました。そのころの将来の夢は、「ブルートレインの運転手さん」

小学校では、2年生の時から好きになった縄跳びを6年生になるまでよくやっていました。ほぼ毎年のように市内縄跳び大会に出場し、6年生の時には、二十飛びの部にて、市内3位(253回)を記録!ちなみにその時の1位が257回、2位が255回でした。

3、4年生の頃はドッヂボールが学年で流行っていて、休み時間のたびに校庭に出てやっていましたし、朝早く学校に行って上の学年のお兄さん達に混ざって練習していました。

5,6年生の頃は、ちょうどJリーグが始まった年で、友達につられてサッカーをやるようになりました。

当時の卒業アルバムに記した夢は『イングランドでサッカー選手になる』でした。

習い事は、スイミング(4泳法習得)、公文式(計算は速くなりました)、ECCジュニア、スクール21へ通っていました。

このころの友達とは今でも交流があり、今でもとても良い友達です。

【中学~高校時代】

中学校に入ると、小学校から始めたサッカーが好きで、サッカー部に入部。

ただ、短距離があまり速くなかったので左DFが主のポジション。いつも1軍と2軍を行ったり来たり。。。3年生の最後の試合には登録メンバーに入り、試合にも出られたのは良い思いでです。

中学生になってからは、1年生から3年生まですべての学年で学級委員をやっていました。その影響もあってか、大勢の人の前で何かをすることに対してあまり緊張することはなくなりました。

高校受験では、第一志望が県立高校でしたが、落ちてしまい抑えで受験した國學院栃木へ、、、

高校時代は、小学校からやっていたサッカーに見切りをつけ(これ以上やってもうまくなれないと思った)、ハンドボール部へ高校入学後すぐに入部。

というのも、中学時代の担任の先生が、國學院栃木出身で、國學院に通うことが決まった話をしたとき、「松田君は左利きだし、國栃のハンドボール部は人数少ないから活躍できるんじゃない」と言われ、その気になったのもありますし、父がハンドボール部の指導をしているのを小さい時から見ていたのもあり、ハンドボール部を選びました。

入部してみて驚いたのは、当時同じ学年でハンドボール部に入部したのは13人でしたが、そのうち10名が特待生で、うち8名が県選抜。心の中では、中学の担任の先生に「先生、全然話が違うじゃん!!」と思いはしましたが、ハンドボールの魅力にのめりこみ、1年生の終わりごろにはレギュラーメンバーに入れるようになり、3年生の時には国体の登録メンバーに入れるまでになりました。『関東大会(3位、ベスト8)、インターハイ2回(ベスト16)、全国選抜大会出場』

【高校卒業後】

高校3年生の時に、大学進学目指し受験するも、希望の大学へは進学出来ず、浪人する道を選びました。

浪人生時代は、一気に気が抜けてしまい、そして勉強する目的、進学する目的を見失い、受験するも全て不合格。

ちょうど時期を同じくして、家族の不幸が重なり進学することを諦め、フリータへ。

フリータの時は、飲食店でアルバイトをしていました。仕事が好きだったのか、稼ぐことが好きがったのかその時はわかりませんが、時給650円で月に10万ぐらい稼ぎました(笑)

その後、人生においての師との出会いによって、自身のやりたいこと将来のことを考えるようになり、飲食店でのアルバイト経験もあり、飲食の道(料理人)でやっていこうと決意し、調理師学校へ進学。

当時は、「料理人するならホテルのコック」と勝手に思っていたので、ホテルへの就職に強い武蔵野調理師専門学校へ進学。専攻はフランス料理。在学中、研修旅行にてスペイン・フランス・ベルギーで研修及び食文化に触れました。

そのころ、お世話になっていた師から人生で初めてフランス料理のフルコースをご馳走してもらい、キャピトル東急へ就職したいと思うようになりましたが、その年は新卒での採用は行っておらず断念。時を同じくして、専門学校の先生から、「水道橋にあるホテルの枠があるけど受けてみない?あそこは、食に拘っていていいと思うよ」と声をかけていただき、採用面接へ行き、無事採用となりました。

【ホテル料理人時代】

 調理部宴会洋食課、冷静料理担当に配属。

 入社当初から、直属の上司や先輩方に恵まれ、入社して少ししてからは、材料の火入れや飾りつけ、婚礼料理の切り出し、宴会会場でのカッティングサービス、料理展示会での1品メニュー作成、採用ホームページでのインタビュー掲載など、かなり多くのことをさせてもらえました。当時の料理長が日本人で一番最初にミシュランの1つ星を獲得した方でしたので、料理人としては最高の環境でした。

特に印象的だったのは、年1回、職場のホテルが主催する料理研究会にて、デザートのカッティングサービスをしているとき、子供の頃、よく母が見ていた料理番組「料理の鉄人」に出演していたフランス料理の鉄人、坂井宏行シェフと話ができたことです。プロの料理人を目指している最中でしたのかなり嬉しかったです。

【テルアポ営業時代】

 24歳頃、ITバブル絶頂期でホリエモンに代表されるIT長者に憧れ、成果主義で仕事ができる業界へチャレンジしてみたく料理関係ではないコンサル系の設立数年の会社に転職。

コンサルティングという言葉は聞いたものの、入社するまで自身が具体的にどんな内容の仕事をするのかわかっていませんでした(汗)

配属されたのは、電話にて大手保険会社の医療保険を販売する営業部。

朝の10時~19時までひたすら個人宅へ電話。だいたい1日に700件~800件電話していました。

入社してちょうど1年ぐらいした時に、200名ほどいる営業部の中で、1位を取ることができ、数名のメンバーを抱えるポジションになりました。

ただ、売り上げが倍々で上がっていくのがわかりましたが、経営会議での売り上げ発表の際に、違和感を感じ。

1年3か月で退社。それから、1年しないうちに会社は倒産しました。危なかった~。

【レストラン料理人時代】

 先行きを決めないまま、前の会社を辞めてしまったので、辞めてから1か月半ほど何もしない時期がありました。

次に何をやろうか模索しているとき、日ごろからお世話になっていた会社の経営者の方から「お前が、将来自分で店を出そうと思っているんであれば、支援できるぐらいのものは集められるぞ」ととてもありがたいお言葉をいただき、プロの料理人目指し再スタートを切る。

 「やるなら町場のレストラン!」(ホテルよりも仕事内容はハードなのでたくさん吸収できると思い)と思い、半蔵門にあるフランス料理店に就職。

 当時のシェフは、本場フランスで数々の星付きレストランを渡り歩いてきた方。

最初は、サービスマンからスタートしましたが、前向きな気持ちを受け取っていただけた様で、当初は「3か月はサービスやってから調理場」と言われて採用でしたが、1か月後に調理場へ。そして、少し給料もUP。調理場に入れた時は嬉しかったです。

 毎日、朝早くから、夜遅くまで仕事する毎日ではありましたが、やりがいを感じていました。

 ただ、3か月したある日、何か自分の中でも糸が切れてしまったのがわかり、料理での仕事をしていく情熱が全く無くなってしましました。料理人として仕事をしていく自分の限界を感じたというのが正直なところかもしれません。

包み隠さず言うと、将来仕事として料理をしているイメージは持てたんですが、楽しそうな表情で料理を作ったり、メニューを考えたりしている姿がイメージできませんでした。

ホテルと町場のレストランで、本場を経験してきたシェフの下、今現在も料理で活躍されている先輩方を当時見ていて感じたのは、皆さん『料理に対する情熱がものすごく高い』、『料理しているときの表情が楽しそう』この2つが共通していました。こういった考えの方々が、料理の道で成功していくんだなと間近で感じることができ、貴重な経験をさせてもらいました。

下の写真は当時の写真。おせち料理の発送が終わった後の食事中。時刻は、夜中の12時です(笑)

【外資系保険会社~大型保険代理店~今現在】

料理の道から、全く違う保険の営業へ。といっても、ほんの少しの経験はありましたが、初の本格的な対面営業の世界へ。

料理の仕事をしているときに、自分自身『人と接する、人と話すことが好きだな』と感じたので、営業の仕事を選びました。

保険会社の面接受けているときに、「保険業界を変える!」というメッセージに強く共感し、2009年2月に大手外資系保険会社へ入社。

それから2017年3月までお客様に支えられ、8年間在籍。

1つの保険会社の商品では、「本当の意味での顧客満足は満たせないのではないか?」と思い、複数保険会社を扱える保険代理店への仕事に2017年5月より就く。

その後、家族もできたことから、福利厚生面、安心して長く勤められる体制の整っている代理店へのご縁をいただき2019年4月より現在の保険代理店に所属。